2012年1月9日月曜日

道は長い

「疫学をやっていた頃は、分子生物学の分野にいけばもっときれいなデータを使って統計解析がやれると思っていた。でも実際は違った。分子データはもっときたなかった。」

マトリョーシカ班会議が終わり、若松原田の近くのタリーズで論文の打ち合わせをした帰り、大ボスがふっと漏らした言葉だ。


これは、自分にとっても非常に共感できる言葉だと思った。
こと分子系統解析において、(自分はまだまだ勉強不足経験不足の素人だが)、やればやるほど、解析に使用する遺伝子配列が複雑雑多なものであり、現行の解析方法が実配列を解析するのに対して如何に脆弱で頼りないものか、それから得られた結果が如何に信用ならないものであるかを痛感する。


生物学者にとっては厄介なことに、分子系統解析方法の脆弱性の問題は計算科学的なリソース・テクニックの限界と強く絡み合っている。そして、これを解決するためには新たな統計学的・計算科学的理論にもとづきプログラムを構築し、それが本当に有効な手段なのか、長い時間と多種多様なデータ解析による検証が為されなければならない。しかもそれで”正解”が得られるかどうかは究極的には分からないときたものだ。

とはいうものの、勿論実データ解析を主とする立場ではそんな長ったらしい検証など待っていられない。必要なのは分子系統解析の限界を知りつつ、(あえて悪く言うならば)適当なところで妥協し、その結果得られたものより現状何が議論できるのかを考えることだと思う。

これは自分自身にとっても、特に他の研究者と協力して研究を行う際には重要なことだ。そういう時には、端から見れば本質的でないような些細な、あるいは言ってもすぐには解決できないような方法論的問題に拘りすぎるのは、良くない。(僕はそれを忘れて頭でっかちなことを言い張ってしまうことがよくあるが・・・)

でも、それとは別に、最終的に自分が何をやりたいのかを考えたときには、とるべき姿勢も違うものになると一方では考えている。

僕は別に進化生物学者にも系統学者にもなりたいわけではない。僕がやりたいのは統計学・計算科学の分野から分子系統解析の方法論を極めることであり、そのために最も重要なことは「データを解析すること」そのものであり、適切な解析手段を追い求めることであり、その土台となる理論を突き詰めることだ。

もっといえば、「解析の結果得られたものから何が議論できるのか」ということは、解析の手段そのものより優先されることではない。結果というのはデータがもともと持っているものであり、適切な解析手段によって抽出されるものに過ぎない。結果から導かれる考察も、適切な解析手段があってこそ初めて意味をもつものであり、”付随するもの”に過ぎない。(これはまあ異論反論多々あると思うが。)

僕の好きな漫画の中に、こういう台詞がある。

「そういうやり方なんだ。”目的のためには手段を選ばず”のちょうど反対でね。」

悪くいえば方法論の奴隷だが、別にそれでいいと思っている。というか、それぐらいの気概?がないと分子系統解析の方法論は極められないと信じている。

分子系統解析を極めてそれで一体なんになんの?
それは、「そういうことを言ってくるやつが出してきた結果を根底から覆してやるような知見を生み出す”土台”を作る」ことだ。理想像だが。

・・・まあ、格好つけたことを書いているが、その姿勢だけを頑固に貫いて、それで生きていけるような力はまだ自分にはない。それだけで論文は書けない。論文を書くことも手段だと思うが、それを満足に行うための能力が決定的に足りない。

結局、中途半端になってしまうかもしれないが、今の自分にとって適当なのは、自分の理想と折り合いをつけて、データを解析することそのものに重要性は置きつつも、それだけに囚われず、「何のためにして」「どんなことを議論するのか」ということも常に意識しながらやっていくことだと思う。

何だか自分でもよくまとまらないことをぐだぐだ書いてしまった。風邪ひきさんはさっさと寝ましょう。

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